親父が、倒れた。入院した病院に駆け付けたら、医者から非常に厳しい宣告をうけた。私は、長男だ。その厳しい説明を、真正面から受け止めなければいけない。母も一緒に聞いていた。でも、母はオロオロするばかりで、とても父に面と向かって説明できる状態ではない。所謂難病の一種。正直、「死」という文字に直結する説明を医師から聞かされた。でも、担当の医師が、極めて客観的に、端から見たら、とても残酷とも思える宣告(説明)をしてくれたことは、ある意味有難いことだった。理路整然と、あくまで医学的かつ技術的観点から、親父が今どういう状態にあるのか、全部解説してくれた。かえって冷静に聞けた。私の理解では、もしこの先一年間、治療を施して、生き延びるようであれば、過去の事例から、この先10年以上健康な状態で生きられる可能性は高い。よって、今からの一年間が、正念場だ。
「走馬灯のように」という言葉は、患者である父本人が使うべき言葉であろうが、この言葉が、私にも自然に浮かんできた。「走馬灯」のように、私が生まれてからの過去46年間に、父と過ごした幼少期の日々や、成人した後に、父と久しく会ったときに交わした他愛もない言葉が、沢山蘇ってきた。
それらの言葉一つ一つを噛み締めるにつけて、反復的に心に浮かんでくるのが、「金沢」だった。父と母は金沢の出身。父は尾張町、母は東山一丁目。浅野川の対岸同士。現在、「主計町」、「東茶屋街」といわれている辺りだ。、私自身も、父と母が帰省する度に、ついて行ったので、幼稚園、小・中学校時代の春・冬・夏のお休みは、その殆どを、金沢で過ごしていた。だから、金沢で撮りたいという気持ちが強くなった。
9月の15,16、17日は、金沢で、父と一緒に行ったことがある場所を訪れて撮った。今回撮った写真は、私の家族以外にはとてもつまらなく、きっと何の意味もない写真。でも、父と私にとっては、大事なもの。
最近、ライカM3を買ったり、一眼レフでは、EOS1VやEOS7sを中心に使っている私にとっては、今回の金沢では、全部フィルムで撮りましたと言いたいところです。しかし、考えたくはないけど、かなりの難病なので、フィルム現像や引伸作業が終わる頃には、もうこの世にはいないというケースもありえるとの思いから、デジイチでも撮りました。
いずれにせよ、フィルムとデジイチによる金沢で撮った写真を一冊の写真集にして父にプレゼントする頃には、完治しているとかたく信じている。